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ホイアン概要
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。
16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。1601年には広南阮氏は徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど繁栄をみせたが、間もなく江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。
17世紀後半、清朝と鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。1770年代には西山(タイソン)党の乱によって町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。しかし、ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
画像はホイアンにある来遠橋(日本橋)。中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。
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